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東京高等裁判所 昭和54年(う)643号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人鈴木淳二提出の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一法令適用の誤りの主張について

所論は、原判示第一の事実(鉄道営業法違反)につき、要するに、鉄道営業法の罰則規定中には、現今の社会の実情に適合しない不合理なものが多く、なかでも、同法三五条により鉄道係員の許諾を要することとされている各所為は、特に表現の自由にかかわる場合、車内、停車場は格別、少なくとも駅前広場においては容認されているものと解すべきであるほか、被告人らの所為は、その目的、態様等に照らし、可罰的違法性を欠くものであったから、被告人を同法条違反の罪に問擬した原判決は、法令の適用を誤ったものであり、この瑕疵が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、記録及び証拠を調査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討すると、まず、鉄道の車内、停車場に限らず、その他の鉄道地内においても、それが一般公衆及び旅客の利用するものである限り、鉄道営業法三五条所定の所為が、管理者である鉄道係員の統制に服することなく、みだりに行われる場合、旅客及び一般公衆に対して多大の不快感と迷惑を及ぼすことは、今日も同法制定当時となんら変りがないと考えられ、権限ある者の許諾を受けたときを除いてこれを一般的に禁止し、違反者には科料の制裁を加えるべきことを示してその実効を確保しようとすることは、現今においても十分に実質的な根拠があるとしなければならない。しかも、現今、駅前広場と称されるような鉄道地内にあっては、さまざまな目的と用務を持って通行する多数の旅客及び一般公衆が、複雑な人の流れを形成しているのが通例であるから、このような場所においては、右法条による規制の必要性はいっそう大であり、その存在は、むしろ旧時より高度に今日の実情に適するものというべきである。また、右法条の運用状況を見ても、国鉄当局は、駅舎の見易いところにその趣旨を記載した掲示を設置するなどの方法で周知徹底を図り、日常の業務運営においても、その全面的な励行に努めていることが窺われる。それ故、同法条は、決して今日の実情に適しないものではなく、駅前広場における同法条違反の所為の一部もしくは全部が容認されたものとなっているということもできない。

また、被告人らの本件所為の目的は、その政治的主張を公衆に宣伝して支持を得ようとするにあったと認められ、このような宣伝行動自体は、憲法二一条の保障する表現の自由の一態様として、最大限に尊重すべきものではあるけれども、このような目的の存在するが故に一切の行為が正当化されるべきいわれのないことも多言を要しないところである。いま、被告人らの所為の態様を見ると、被告人らは、乗降客及び多数の一般公衆の通行する鉄道地内である原判示新小岩駅南口改札口前歩道上で、同駅における朝のラッシュアワーの始まる午前七時一〇分ころから同四五分ころまでの間にわたり、被告人において持参の携帯マイクを用いて演説をし、他の共犯者らにおいて宣伝ビラ多数を配布し、鉄道係員からその中止を指示されながら、右携帯マイクの使用をやめただけで、なお演説、ビラ配布を執拗に継続し、係員らから鉄道地外に押し出されれば、たちまちもとの位置に立ち戻ることを繰り返すなどしたものであって、その所為は、単に形式的に右法条に違反するにとどまるものでなく、科料を法定刑とする同法条の予想する程度の実質的違法性を十分に具備し、可罰的なものであったことは到底否定することができない。

所論は、独自の見解に立脚して原判決の法令の適用を論難するものであって、採用の限りでない。論旨は理由がない。

第二事実誤認の主張について

所論は、原判示第二の事実(公務執行妨害)につき、要するに、被告人が原判示伊東三郎に対し、原判示のような暴行を加えたことを認定するに足りる証拠は存しない。原判示にそうかのような原審証人らの各供述、就中田嶋静夫の供述は信用すべからざるものである。かりに被告人が原判示伊東三郎に対して、いささかの有形力を行使したものとしても、その程度は極めて軽微であって刑法九五条の予定する類型にまで達しないのみならず、その時期は、右伊東の公務執行中でなく、これを終了した瞬間であったのである。そうであるのに、被告人に対し公務執行妨害罪の成立を認めた原判決は、事実を誤認したもので、この瑕疵が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、記録及び証拠を調査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討すると、原判決挙示の各証拠によって原判示第二の事実は十分に認めることができ、所論に即してさらに考察を加えても、原判決に所論のような事実誤認の存在することを疑うに足りない。

念のため、主要な点について判断を示す。

まず、所論は、原審証人田嶋静夫の供述の信用性を争い、同人は、その経歴や首席助役という地位に照らし、政治活動に対して悪感情を抱いていることが窺われ、本件排除行動においても主動的であったし、供述内容をみても、他の関係者ら、特に原審証人伊東三郎の供述と著しくくいちがい、全体として誇張が多く、あいまいな点もあり、作為的、意図的である、などという。

しかしながら、右田嶋が、その立場や信条に基づいて、ことさらに虚偽あるいは不正確な供述をしたと認めるべき証跡は発見できず、その供述内容も、大筋では、伊東の原審証言その他の関係証拠と一致するのであって、別段、不自然、不合理な点は存しない。原判示暴行のあった際、右伊東が、駅舎方向を向いていたのか、背中を向けていたのかについて、田嶋の供述と伊東の供述とに異る点があるけれども、田嶋が原審公判廷で図示したところは伊東供述と大差なく、特に、伊東と被告人とは向かい合っており、田嶋は被告人の背後からその背を押すようにしていたとの相対的位置関係については伊東供述とよく符合しているうえ、いずれにせよ、右暴行は一瞬の出来事に過ぎず、その前後にわたって田嶋及び伊東による被告人に対する排除行動が繰り返されていたのであって、被告人ならびに右両名はもみあいながら移動している状態であったことが原審証人梅沢義行の供述によっても知られるところであり、かつ、田嶋の証言は、事件発生後約六か月を経てなされたものであることをも考えれば、右のような状況のもとで体験した事実の細部につき、記憶が薄れていることは異とするに足りない。また、伊東が自己のズボンの裾に付着している靴底の痕跡に気付いた時期及び場所は、事件発生直後、田嶋と伊東が駅前交番の前にいた時であるとする田嶋供述は、これを、その後、両名が本田警察署に赴いた時であるとする伊東供述と相違するけれども、伊東が右痕跡に気付いてこれをはたこうとしたのを田嶋が制止して、警察署で写真撮影がなされるまでこれを保存させたことについては、両名の供述が一致しており、このような事実のあったことは疑いを容れず、時期ないし場所については、被告人が警察官に逮捕され、騒ぎが一段落した時点で、現場間近かの駅前交番付近において、首席助役としての職責に基づき伊東に対して負傷の有無を確認した際、同人も右痕跡に気付いた旨の田嶋の供述が具体的かつ自然であり、これを措信すべきものと考えられる。相対的な位置関係等から、田嶋が被告人の暴行を目撃することは不可能であるとする所論は、独自の見解であって採用できない。結局、田嶋の原審証言は、少なくとも原判示事実にそう限りにおいて、十分に措信することができ、所論の諸点はその信用性をくつがえすに足りない。

そのほか、原判決が原判示事実にそう原審証人伊東三郎、同小芝博昭の各供述を採用したことに疑問はなく、これに反する原審証人井上一夫の供述は、その内容が客観的事実に反する点を少なからず含んでいるほか、同人と被告人との身分関係をも考えあわせると、原判決がこれを措信しなかったことに誤りは存しない。

さらに、所論は、被告人が伊東に対して行使した有形力の程度及び時期を云々するけれども、関係証拠によれば、被告人は、自己の穿いている堅ろうな皮製編上げ靴で、足払いを掛けるようにして伊東の右下腿部を蹴り付けたことが明らかで、たまたま同人が厚手の靴下ないし下着を着用していたため、負傷するには至らなかったものの、靴底付着の泥様のものによって伊東のズボンに痕跡がつき、これが後刻伊東が本田警察署に赴いた際にも明瞭に残存していたこと、また、蹴られた時、伊東は足が横に曲がるように感じたということなどに徴し、被告人の蹴りつけた勢いは相当強度であったと考えられ、かつ、右暴行のなされたのは、伊東が、田嶋の協力を得て、被告人を鉄道地周辺部まで連行することには成功したけれども、いまだこれを鉄道地外まで排除するにいたらず、なお排除のための努力を継続していた際であり、当時伊東は現に職務執行中であったことを認めるに足りる。なお、前記痕跡が、被告人着用の靴の靴底によって生じたものであることは、当時の状況のほか、その模様の形状によって明白である。

以上のしだいで、原判決が、原審証人田嶋静夫の供述をその大筋において信用し、その余の関係証拠をも総合して原判示第二の公務執行妨害の事実を認定したことは、相当として是認することができる。論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 西村法 裁判官 高山政一 田尾勇)

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